ERNEST HEMINGWAY


● 陽はまた昇る ●
 ハードボイルスタイルと呼ばれる力強い文体で描かれた数々の作品と、あまりにもドラマチックな生涯が、死後もなお人々を魅了してやまないアーネスト・ヘミングウェイ。

 かの文豪がサン・フェルミン祭にはじめて訪れたのは1923年のことだ。 そしてこの時の祭りの経験は、23歳の青年ヘミングウェイに深い印象を刻み付けた。 ヘミングウェイはこの年の終わりに、特派員をしていたトロント・スター社と解約し、 本格的な作家への道を歩みだしている。
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 すっかり祭りの虜となってしまったヘミングウェイは、その後1927年までに5年連続して、 さらに1929、1931年と、9年間で7回もサン・フェルミン祭を訪れている。このページの後半でふれるが、 闘牛場前の像に刻まれた「祭りの崇拝者である」という言葉どおりの パンプロナ詣でを繰り返していたわけだ。

 そしてこの情熱が、1926年にヘミングウェイの名を文壇の第一線まで いっきに押し上げることとなった処女長編 『 陽はまた昇る 』 を生ませることとなった。
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 この作品については様々な研究書が発行されているので、参考図書のページを参照していただきたいのだが、 一つ興味深いエピソードを紹介すると、この作品の登場人物には明確なモデルがいたということだ。

 作品の中におこるブレッド・アシュレを中心とした恋のさやあては、発行の前年となる1925年に、友人達と祭りに 訪れた際の経験をもとにして書かれたものであった。そしてその結果、ヘミングウェイはこれらの友人を 永遠に失うこととなってしまった。

 もっともヘミングウェイ自身は後のインタビューで、友人を失ったことについてさして痛みを感じないと 答えている。「物語を作ることとは、現実をよりあらまほしき形に再構成すること」と答え、さらに 「物語のモデルとは、セザンヌが風景の一部に人の姿を描くようなものだ」と付け加えた。
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 またヘミングウェイは1932年、パンプロナほかスペイン各地での闘牛観戦の経験と、 3000にもおよぶ闘牛関係の資料をもとに『 午後の死 』を発表している。この作品は、 スペイン語以外で書かれた闘牛解説書として最高の一冊と言われ、また文学論なども 展開されていて興味深い。

● ヘミングウェイ像 ●
 現在、パンプロナ市の闘牛場を取り囲む緑地は、パセオ・ヘミングウェイ(ヘミングウェイの散歩道)と名づけられた 気持ちのいい散策路となっている。
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 散策路のシンボルとなるヘミングウェイ像は、 闘牛場入り口から少し離れた左手の奥まったところにある。 プラタナスの木立ちに囲まれて、静かにたたずむヘミングウェイ 像の胴部には、彼の功績を称えてこんな言葉が刻まれている。
アーネスト・ヘミングウェイ
ノーベル文学賞作家

この街の友人にして、
サン・フェルミン祭の崇拝者である。

パンプローナの街を描き、
その名を広めた功績を称えて。
1968年
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 ヘミングウェイ像は2メートルを越す立派なものだが、歴史的建造物でもなく、また美術品としての魅力がある訳でもないこの像の前で足を止める者は少ない。 パンプロナ市で発行しているガイドマップにもヘミングウェイ像の所在は記されておらず、表通りからもちょっと見つけにくい。

 しかし、牛追いのコース上で最も危険といわれる闘牛場前あたりを睨むようにして立つこの像を眺めていると、死してなお劇的なシーンを望む文豪の魂を見るような気持ちになって感慨深い。

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